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相模原市の統計 人口 面積 沿革など |
相模原市(さがみはらし)は、神奈川県北部にある政令指定都市。緑区、中央区、南区の3区で構成されています。 人口は721,000人(2013.10現在)相模原市は、神奈川県内では横浜市、川崎市についで第3位の人口規模を擁しています。 面積は328.83km2 人口密度は2,190人/km2 2007年3月11日の2町の編入合併により人口は70万人を超え、全国の市で第18位となりました。 相模原市が市制施行されたのは1954年(昭和29年)ですが、戦後に純粋に市制施行された都市の中では最も人口が多くなっています。 (さいたま市、北九州市が誕生したのは戦後ですが、これら2市は複数の自治体の新設合併により誕生した都市です。) 2010年3月末までの政令指定都市移行と、首都圏サミットへの参加を目指していたが、 2009年10月2日に原口一博総務大臣が必要な作業に入るよう指示し、その後、10月23日の閣議で相模原市を2010年4月1日を以て 政令指定都市に昇格させることが決定されました。 非道府県庁所在地では5番目、戦後に市制施行された都市では初の政令指定都市の誕生となり、 2009年4月1日に移行した岡山市に次ぐ19番目の政令指定都市(緑区・中央区・南区の3区制)へ移行しました。 これにより、神奈川県は全国で唯一の3つの政令指定都市を持つ都道府県となりました。 経済面や鉄道・道路などの地理上、県内他市よりも東京都、特に多摩地域とのつながりが強く、 首都圏南西部の核として国から位置づけられています(首都圏業務核都市指定都市)。 しかし、東京都心まで電車で35-40分程度(相模大野より小田急小田原線の快速急行あるいは橋本より京王線の特急の場合)であり、 産業構造の転換により大型工場の撤退が相次いだことで、ベッドタウンとしての面が一層強まっており、 業務機能の集中は弱いのが現状です。そのため、中心市街地法で都市核が複数(橋本・相模大野)認められている都市であります。 当市以外で複数の都市核が認められているのは静岡市、北九州市、熊本市の3市のみです。 旧市域は概ね3地区に分けられています(橋本を中心とした北部地区、相模原駅付近・中央地区を中心とした中部地区、 相模大野を中心とした南部地区)。 2006年3月の合併以前の旧相模原市域は、隣接する町田市との経済的・地理的・文化的関わりが深く、 共に業務核都市に一つの都市として指定されていました。近年、東京都心へ旧市域南部の相模大野から35分程、 旧市域北部の橋本から40分程で行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとしての人気が高まり人口が爆発的に伸びています。 特に20代、30代、50代周辺の人口が多く、市全体を活気ある雰囲気にしています。 市内には相模原公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然な環境が近いことなどから 若年世帯を中心とした人口の流入が続いています。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多く、 更に多数の大学を抱える八王子市への交通が便利なため、学生の街としての顔も併せ持っています。 また、市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパス(開所時は文部省宇宙科学研究所)があり、 日本の宇宙科学の研究拠点として知られています。 また編入した旧津久井郡4町のうち、城山町と津久井町は橋本駅を最寄り駅として利用しており、 国道413号(津久井街道)を介して相模原市中心部との結びつきがあるのに対し、相模湖町と藤野町は相模原市中心部よりも、 JR中央本線や国道20号(甲州街道)を介して、八王子市との結びつきの方が強い状態です。 相模川左岸の相模原台地上に位置する平坦な東部・旧相模原市域(中央区・南区および緑区東部)と、 南の丹沢山地と北の高尾山・陣馬山などの間に広がる山地を相模川などが刻み、河岸段丘上にわずかな平坦面が散在する 西部・津久井地域(旧津久井郡、緑区の大半)とに分けることができます。 ただし、津久井地域のうち旧城山町東部は地形的に連続する旧相模原市域と合わせて相模原台地の一部として理解するのが適当でしょう。 相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)は相模川が作った扇状地が隆起して形成された洪積台地です。西側の相模川に沿って、 気候変動や海水面の変化によって形成された河岸段丘が発達しています。大きく3段に分けられる段丘面のうちでは上段(相模原面)が 最も広く、旧市域の半分以上を占め、旧城山町東部の大半もこの段丘面上に広がっています。 緑区川尻(旧城山町)の川尻八幡宮付近の標高約180mを最高点に南東へ向かって徐々に高度を下げ、 緑区橋本六丁目の神明大神宮付近で約140m、南区東大沼二丁目の大沼神社付近で約100m、 南区相南三丁目の東海大学付属相模高等学校付近で約85mとなり、南の大和市や座間市に続いています。 段丘面上は平坦ではあるが水に乏しく利用が進まずに原野が広がっていました。 相模原または相模野とは主にこの原野について呼んだものです。 江戸時代以降に行われた新田開発によって畑と雑木林の広がる景観となりました。 日中戦争下、1930年代に新興工業都市の政策により、軍事施設(当市域では主に陸軍)が相次いで進出し、 北部では「軍都計画」と呼ばれる大規模な都市計画に基づく土地区画整理事業が 当時の内務省神奈川都市計画地方委員会(野坂相如、浅野英ら)によって行われました。 1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、戦後しばらく経ってから区画整理事業は再開し完成、 そして1960年代以降急速な都市化が進行しました。 現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、 南区麻溝台・新磯野地区には農地が広がっています。なお、旧軍施設の中には戦後米軍に接収されたものも多く、 現在も返還されていない区域が旧相模原市域の面積の約5%を占める。 緑区久保沢から下九沢、中央区上溝を経て南区下溝まで上段と中段(田名原面)の境をなす段丘崖は「横山」と呼ばれています。 「ハケ」とも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川、姥川、道保川が段丘崖に並行して南東へ流れますが、 これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられています。 下段(陽原[みなばら]面)は3段の中では最も面積が狭く、主に中央区田名地区内の一部(陽原・望地・塩田)を占めます。 これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、 川が南へ向きを変える南区当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せています。 田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の小倉橋、大島河原から 水郷田名(田名久所[ぐぞ]地区)にかけての区域は大正期から風光明媚な景勝地として知られています。 当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川は多摩丘陵を刻む小河谷である「ヤト」(谷戸)や、 鳩川などと同じくハケの湧水を水源としていますが、これも元の相模川の流路であったと考えられています。 以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川でした。そのために戦後徐々に河川改修が進められて 橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化されました。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、 特に町田市との間でほとんど進まず、相互に「川向こうの飛地」を多く抱えています。現在ではかなり改善されています。 緑区の中・西部で区全体の面積の9割以上を占める津久井地域は、相模原台地の北西端に位置する旧城山町東部を除くと、 ほぼ全域を南の丹沢山地や北の秩父山地に連なる山地が占め、両山地の境界をなす相模川と、道志川をはじめとするその支流沿いに 河岸段丘が散在するのみの平地の少ない地域です。道志川の南側、旧津久井町南西部の青根、青野原、鳥屋(とや)地区は、 丹沢山地の北部によって占められ、大室山から同山地最高峰の蛭ヶ岳を経て丹沢山に連なる主稜線で南の足柄上郡山北町と境を接します。 また、主脈と呼ばれる蛭ヶ岳から焼山へ至る稜線は北西側の道志川流域と南東側の中津川支流の早戸川流域(いずれも相模川水系)を 分ける尾根となっています。標高は低いながらも険しい壮年期の山地であり、平坦地は道志川南岸の高位に散在する狭小な河岸段丘と、 串川上流にわずかに伸びる谷底平野が分布するのみです。前者の河岸段丘群を貫通する国道413号に沿って青根、青野原の集落が、 後者の谷底平野に鳥屋の集落とわずかな耕地が分布する外は山林に覆われています。深い谷で谷底平野をほとんど持たない 道志川の北側では、石老山、石砂山を経て山梨県上野原市と道志村の境をなす尾根筋が大きく道志川の側に偏って伸び、 北の相模川の河谷へ向かって徐々に高度を下げる丘陵によって占められています。旧藤野町南部の牧野(まぎの)地区の集落は この主に丘陵地の緩斜面に散在しています。西に隣接する上野原市秋山地区からは秋山川が流入し、日連(ひづれ)大橋付近で 相模川に合流します。一方、相模川の北側では和田峠、陣馬山、景信山、小仏峠、城山(小仏城山)、大垂水峠と連なる尾根筋によって 北の東京都八王子市および檜原村と境を接し、西隣の山梨県(上野原市)との境界をなして南流する境川と東側の沢井川のつくる河谷に 旧藤野町北部の佐野川、沢井の集落が分布しています。 これらの山地の間を東西に貫流するのが相模川です。一般に山梨県内では「桂川」と呼ばれ、神奈川県に入って「相模川」と 呼ばれるようになるとされていますが旧相模湖町では北岸の与瀬、小原(おばら)両地区を合わせて「桂北地区」と呼んだり、 さらに下流側の千木良、若柳地区間に架かる橋を「桂橋」と呼んでいる例も見られます。 上流の上野原市と接する小淵、名倉(旧藤野町)から下流側の中沢、城山、谷ヶ原(旧城山町)にかけて、 相模川の両岸には相模原台地と同時期に形成された数段の河岸段丘が発達しています。この平坦面を連ねて甲州街道(国道20号)、 JR中央本線、中央自動車道が通過し、東京(江戸)と甲信地方を結ぶ重要な交通路となっています。 旧津久井町北東部では相模川南岸に比較的面積の広い段丘面が広がり、この段丘上に位置する中野地区は津久井地域の主邑として 行政の中心となっています。焼山から道志川・相模川と串川に挟まれて伸びる尾根筋の末端の城山は相模川を隔てて相模国中央部の 広大な平坦地を見下ろす要害の地に位置し、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏によって築城されたことからこの名があるとされています。 段丘上の平坦地に対して相模川の谷底の平坦地(谷底平野)の発達は良くありません。この地形を利用して1947年(昭和22年)に 相模ダムが、また1965年(昭和40年)には城山ダムが建設され、それぞれのダムによる人造湖として相模湖、津久井湖が形成されました。 道志川には1955年(昭和30年)に道志ダム(奥相模湖)が建設され、また2000年(平成12年)に完成した中津川の宮ヶ瀬ダムの ダム湖(宮ヶ瀬湖)の一部は津久井町にかかっています。これらのダム湖、および川尻地区北部(旧城山町)のヤト(谷戸)の奥に 本沢ダムを築いて津久井湖から汲み上げた水を貯めて作られた城山湖との間は導水路で結ばれ、一体的な水資源管理が行われています。 神奈川県北部に位置し、北東は東京都に接します。南西には相模川が流れ、西に丹沢山系をはるかに望む相模野の広い台地が開けています。 相模原(「相模)の名前の由来は、足柄筥根から見おろす「坂見(さかみ)」の国、 足柄二郡は山でそのほかも平地が少ないことから「嶮上(さかがみ)」、武蔵の佐斯(さし)の上(かむ)の国で「さかむ」 古代朝鮮語の「サガ(寒川)」、「サ神」という神の名称からといった諸説があります。 |